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【祝卒業】石田洸介選手特集

  • 執筆者の写真: 誇り
    誇り
  • 3月21日
  • 読了時間: 7分
石田洸介
石田洸介選手

鉄紺4年生の卒業特集第2弾は、鳴り物入りで入学するも怪我などに苦しみ、今年度見事復活を遂げた石田洸介選手の4年間を振り返っていきます。



4年間の戦績まとめ
石田洸介選手戦績
石田洸介選手の4年間
高校のスターが大学駅伝で区間賞デビュー

皆さんご存知の通り、中学時代からこの世代を引っ張ってきたスーパースターだ。

中学時代には1500m・3000m・5000mで中学日本記録を叩き出して"スーパー中学生"と呼ばれ、高校時代には当時5000m高校日本記録16年ぶりに塗り替える13分36秒89をマークし、さらにその2ヵ月後には13分34秒74をマークし、2度も日本記録を塗り替えて世間を大きく沸かせた。

進学先にも注目されるところだったが、数々の日本代表を送り込んでいる酒井監督の指導を受けたいと東洋大学に進学を決めた。


入学後は入学前に走りのバランスを崩した影響で前半シーズンは苦しんだが、夏合宿から徐々に調子を上げ、秋口の5000mでは13分台をマークして復活をアピールした。


その勢いがままに1年生ながら出雲5区で出走を果たし、6位でタスキを受け取ると前にいる選手をどんどん抜き去る圧巻の走りで2位まで浮上し、駅伝ファンに衝撃を与えた。区間2位以下を20秒以上つける圧巻の区間賞デビューを果たし、高校時代の片鱗を見せた。

続く全日本でも4区に出走し、本人も「区間賞でも素直に喜べない」とレース後反省を口にしていたように出雲ほどの走りではなかったものの、青学高橋選手と同タイムで区間賞を獲得し、出雲に続いて連続区間賞を果たした。


この勢いのまま箱根での活躍にも期待したが、全日本後から疲労の影響で調子を落とし、将来のある選手で無理をさせないという酒井監督の方針もあり、箱根では走ることが叶わなかった。



初の箱根出走を果たすも大苦戦

2年目でも前半は故障や貧血などに苦しみ、前半のトラックシーズンでは一度もレースに出場することができなかったが、夏合宿で調子を取り戻し、秋のトラックでは5000m13分台、10000m28分台をマークした。


駅伝シーズンでは将来の期待も込めて出雲3区、全日本2区と主要区間を任されたが、ともに区間9位とポテンシャルを考えると少し物足りない結果となった。

その後の小江戸ハーフでは、初のハーフながら1時間04分00秒をマークして2位に入り、長い距離への不安も少しずつ払拭できた。


この勢いのまま箱根でもメンバー入りも果たし、区間エントリーでは当時エースだった松山選手がメンバーから外れたこともあって2区に登録され、箱根デビューを果たすのが濃厚になった。

そのまま2区に登録されて箱根デビューでの活躍に期待したが、体調不良なども影響もあって本来の走りとは程遠く、区間19位とまさかの大苦戦となってしまった。

レース後「大ブレーキしたことでチームにとても迷惑をかけてしまった」と責任を感じており、ファンとしても心が痛かった。

でも「起用していただいたことに感謝」や「この経験と悔しさを無駄にしないように心に刻みたい」と前向きな言葉が見られて、こちらとしても勇気づけられた。


メンタル的に大丈夫かなととても心配したが、箱根後初のレースなった学生ハーフでは1時間03分09秒の自己ベストマークしており、元気な姿を見せてくれてファンとしてもとても嬉しかった。



一時競技から離れるも同期の活躍で復帰

3年生になると、序盤の金栗記念10000mに出走するも30分台で最下位となった。

これを機に、しばらく表舞台から姿を消してしまい、「一体どうしたんだろう」ととても心配になった。

その後の情報で一時競技から離れていたことがわかり、ファンとしても心が痛かった。

本人は「箱根2区でのブレーキで不調に陥ってしまった。もう僕は駅伝を走ってはいけないと思った。こんなに苦しいことが人生であるのかと思った。正直陸上を辞めるつもりだった。」と想いをつづっており、スター選手でもこんな苦悩があるんだなと人生の厳しさを感じた。


約4か月間のブランクを経て、その年の9月にチームに復帰することを決断した。

「4か月長かったけど僕には必要な時間だった。同期の頑張りに感動した。僕ももう1度箱根駅伝を走りたい。」と前向きな姿勢が見られてすごく応援したくなった。


その後小江戸ハーフで戦列復帰を果たし、箱根ではメンバーから外れたものの給水係を務めるなどチームのサポートに徹した。その際に同期の活躍に刺激を受けて、「俺もやってやる!」という気持ちになれた。



石田洸介復活祭も
石田洸介復活祭
石田洸介復活祭

誇りとしても自分の中で3年時の箱根後に「来年は石田洸介復活祭やな」と宣言しており、この最後の1年に大復活を期待していた。


最終学年となった4年生では、4月の私学七大学の3000mに出場し、8分04秒の好タイムをマークして完全復活をアピールした。「今思いきって走れていることが嬉しい」とファンとしてもこの復活は本当に嬉しかった。

その1週間後には日体大5000mに出場し、13分57秒と2年ぶりに13分台をマークした。「関東インカレでは5000か10000mに出場し、チームを盛り上げたい。」と明るく前向きの石田選手が頼もしかった。

さらにその1週間後には東海大10000mに出走し28分49秒をマークし、好調さと充実ぶりをアピールした。


その勢いで関東インカレでは初のメンバー入りを果たし、10000mにエントリーされた。

本番では先頭を引っ張る積極的な走りを見せ、28分08秒29のチームトップタイムの自己ベストをマークして6位入賞を果たした。レース後「今出せる自分の力は出し切れた。ようやく誇れる結果を残せた。」と笑顔で振り返っており、まさに「石田洸介復活祭やな」と思ってすごく嬉しかった。


その後6月の全日本予選10000mでもメンバー入りを果たし、3組に登録された。

本番では積極的な走りを見せ、残り1000mでロングスパートをかけてそのまま組トップでゴールした。

あのロングスパートをかけた時には全米が泣いたし、こうして充実して走れていることが本当にすごいなと感心した。さらに下半身もしっかりとした体になっており、本当に頼もしく見えた。


その後7月にホクレン10000mに出場したが、疲れの影響からかこれまでの好調さとは裏腹に後半に失速してしまい、好調を維持することの難しさを感じた。


夏合宿では前半はしっかり走り込みができたが、後半ではその反動で少し故障をしてしまった。

その影響で出雲は回避して、全日本から出走することとなった。


全日本戦列復帰を果たして6区に出走したが、練習不足の影響で本来の走りができず、区間21位と苦しんだ。「久々に帰ってこれたのは大きな1歩だが、悔しさもだが申し訳ない気持ちになった。練習不足承知の上で出場したので、そのことはしっかり受け止め、監督の言葉を信じていきたい。」と箱根を見据えて前を向いた。


その後小江戸ハーフでは、キロ3分10秒設定よりも速く順調に走れることができ、最後の箱根に向けてアピールした。レース後「任された区間でしっかり責任を全うしたい。これまでお世話になった方々に恩返しの走りをしたい。」と最後の箱根にかける想いは強かった。


その後箱根のメンバー入りを果たし、壮行会では「しっかり復帰して順調に練習を積み重ねている状態。苦しいところでも粘る姿や前半から攻める姿で後続の選手に勇気を与え、駅伝の流れを変える走りをしたい。」と意欲見せていた。

だが、その前後にアキレス腱を痛めた影響で継続したトレーニングができず、酒井監督と話し合って「出場は難しい」という決断に至った。

本人としてとても悔しかったと思うが、「走るメンバーをサポートしていく中で、少しずつ気持ちが和らいだ。彼らが頑張る姿を間近で観て、徐々に前向きな気持ちになった。」とチームのサポートに徹する姿勢を見せて、本当にこの4年間で成長したなと感じた。今後の競技人生でそのことが必ず報われる場面が出てきてほしいなと感じた。



今回は石田洸介の4年間を振り返ってみましたが、中学高校時代とは裏腹にこの4年間本当に苦しかったと思います。

そんな中でも最終学年で復活を果たして大舞台で活躍していた姿を見て、ファンとしても本当に夢を見させてもらいましたし、たくさん元気をもらいました。

卒業後はスバルにて競技を続けるので、大学時代の屈辱を晴らして高校時代の時のような輝きを取り戻せるよう頑張ってほしいと思います!

頑張れ!石田洸介!!




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